店舗DXの未来を切り開く!革新技術で顧客体験を向上させる方法とは

結論を先に述べるなら食事という体験はモバイル注文の広がりによって根本から組み替えられていく未来

食事という時間の全体が作り替えられていくという結論を先に示します

手元の端末から料理を頼めるモバイル注文が暮らしの中へ広く根を下ろしつつあるいま、食事という営みは注文というたったひとつの場面だけにとどまらず、行き先の店を選び、卓に着き、料理の到着を待ち、目の前の一皿をじっくり味わい、支払いを済ませ、そしてまた同じ暖簾をくぐり直すまでの一連の流れそのものが、根っこから静かに、しかし確かに組み替えられ続けているのだという結論を、まずはじめにはっきりとお伝えしておきたいと思います。

多くの人が食事という言葉から思い描いてきた光景といえば、店の入口で順番が来るのを待ち、席へ案内されてから紙のお品書きを開き、そばに立つ店員を呼び止めて口頭で品を告げ、料理が運ばれてくるのをただ手持ち無沙汰に待つという、長らく大きく変わることなく続いてきた一続きの段取りであったはずです。

その慣れ親しんだ段取りのひとつひとつに、手元の画面を通して注文を送る仕組みが差し込まれていくことで、食事の前後に横たわっていた待ち時間や品の取り違えといった小さな引っかかりが順に取り除かれ、味わうという中心の時間へと気持ちを注ぎやすくなっていくところに、この変化のいちばんの値打ちがあるのだと考えています。

注文が手元でひと通り完結するようになると、席に着いてから最初の料理が届くまでのあいだに生じていた無駄な間延びがぐっと縮まり、限られた食事の時間を、料理そのものを楽しむことや、同じ卓を囲む相手とのくつろいだ語らいへと、これまでよりも多く振り向けられるようになる点は、体験の質を確かに底上げしてくれる大きな要素だと申せます。

ここでどうしても押さえておきたいのは、この作り替えが、単に人の手を機械へ置き換えて処理の速さを稼ぐという表面的な次元の話にはとどまらず、食事にまつわる一日の記憶の輪郭そのものを、これまでとは違うかたちへと少しずつ描き直していく、もっと奥行きのある営みなのだという一点にほかなりません。

店を出たあとに手元へ残る領収の記録や、次に訪れたときにその人の好みへそっと寄り添って差し出される品書きといった、食後にまで細く伸びていく体験の尾のような部分までもが、注文の仕組みと結びつくことによって、これまでにはなかった新しい表情を帯び始めているのが、いまという時代の姿です。

この記事では、その組み替えがどの場面でどのように起きているのかを、料理を選ぶ場面、注文してから待つ場面、受け取って味わう中心の場面、しめくくりの支払いの場面、そして再び店を訪れる場面という順に、ひとつずつていねいに解きほぐしながら、順を追って見ていくことにいたします。

あわせて、料理を提供する店の側から眺めたときに、この仕組みが現場へどのような余裕を生み出し、その現場のゆとりがめぐりめぐって客の味わう時間へどのように還元されていくのかという、表と裏の両面のつながりにも、章を割いてしっかりと光を当てていきたいと思います。

注文の入口を担うこうした仕組みは、いまやごく一部の目新しさを売りにした店だけの特別なしつらえではなくなっており、身近な食堂から持ち帰りを中心とする店、腰を据えて味わう店まで、じつにさまざまな業態の日常の風景の中へ、もはやごく自然なものとしてとけ込みつつあるのが現状です。

だからこそ、この変化を漠然とした便利さの話としてひとくくりに片づけてしまうのではなく、食事という体験の骨格がいったいどこでどのように組み替わっているのかを、腰を据えて具体的に見つめ直すことには、店を営む人にとっても、日々食卓を囲む人にとっても、決して小さくない確かな意味があるはずだと考えています。

結論をあえて先に置いたうえで、これから続く各章では、その結論をしっかりと裏づける具体的な場面と、そこで実際に働いている仕組みの中身、そして体験がどのように変わっていくのかという手ざわりを、できるかぎり生きた言葉で描き出していくつもりでおりますので、順に読み進めていただければ幸いです。

読み進めていくうちに、これまで当たり前のものとして受け止めてきた食事という何気ない時間の一つ一つの場面が、実は手元の小さな画面を起点にして少しずつ姿を変えつつあることに、あらためて気づいていただけるのではないかと思っております。

それではまず、食事という体験の入口にあたる、店を選び、卓の上で料理を選ぶという場面から、その組み替えの実相を順にたどっていくことにいたしましょう。

店と料理を選ぶ入口の場面から体験は静かに変わり始めます

食事という体験がいったいどこから作り替えられていくのかを順にたどるとき、まず最初に目を向けておきたいのは、今日は何を食べようかと思い描き、どの店へ足を運ぶかを決め、卓に着いてから一皿を選び取るという、いちばん入口にあたる、選ぶという場面にほかなりません。

かつての品選びといえば、席へ案内されてから手渡される一枚きりのお品書きを慌ただしく目で追い、そばで店員が注文を取ろうと待っている気配をどことなく感じながら、限られた短い時間の中でどうにか決めてしまうという、どこか急かされる性質を色濃くおびたものでした。

手元の画面から思い思いに注文できる仕組みが整うと、この選ぶという行いに、自分自身の間合いでじっくりと向き合えるゆとりが静かに戻ってきます。誰かにせかされる息苦しさを感じることなく、気になった品をなんども見比べながら、納得のいくまで心を決められるようになるのです。

画面の上では、一皿ごとに仕上がりの写真がていねいに添えられ、そこに使われている素材や量のおおよその目安、味付けの傾向といった手がかりまでもが言葉で補われているため、料理の名前だけではとうてい思い描きにくかったその姿を、注文する前の段階でかなりの確かさをもって思い浮かべられるようになります。

はじめて足を踏み入れた店で、聞き慣れない名を冠した一品を前にして、頼んでみようかどうしようかと迷うようなとき、こうした添え書きの手がかりがそこにあるのとないのとでは、選ぶ際に感じる心細さの度合いが、実際にはずいぶんと大きく違ってくるものだと感じます。

食べられない素材や避けたい材料を抱えている人にとっても、原材料の内訳が画面の上であらかじめ落ち着いて確かめられるということは、口頭でひとつずつ店員に尋ねてまわる気兼ねやためらいから解き放たれるという意味で、選ぶ場面の安心を確かに一段と厚くしてくれる働きを持っています。

辛さの度合いや盛りの大小、付け合わせの有無といった細かな好みを、注文を進める途中でひとつずつ選び足していける仕組みが備わっていれば、運ばれてきた一皿が頭の中で思い描いていたものと食い違ってしまうという行き違いも、入口の段階でぐっと減らしていけるようになります。

複数の人で一つの卓を囲むような場面では、それぞれが自分の手元から思い思いに品を選び、その注文をひとつにまとめて厨房へ送れるため、代表となった誰かが全員の希望をひとつ残らず聞き取って店員へ正確に伝えるという、ささやかながらも意外に気の張る役目からも解放されることになります。

品書きの見せ方そのものも、ただ紙の上に印刷された固定の一覧とは異なり、季節の移ろいやその日の時間帯に合わせてしなやかに変えられるため、いままさにこの時に勧めたい旬の一皿を、選ぶ人の目に自然と留まりやすい位置へと、さりげなく差し出すことができるようになります。

こうして選ぶという場面が客の手元へと移っていくことで、客は自分自身の関心のおもむくままに料理と落ち着いて向き合えるようになり、店の側もまた、本当に伝えたい料理の魅力を過不足なく届けられるようになるという、双方にとって心地よいつり合いの関係が、そこに新しく生まれてきます。

選ぶという行いは、食事という体験の中では一見すると地味で、ともすれば見過ごされがちな入口の場面にすぎませんが、そこでどれだけ納得して決められたかという手ごたえの度合いが、そのあとに続く味わいの満足を大きく左右する土台になっていることは、あらためて心にとどめておきたいところです。

あれこれ迷いながらも、最後は自分の意志できちんと選び切ったのだという小さな手ごたえは、やがて運ばれてくる一皿への期待をふくらませ、実際に口へ運んだときの満足を、より深く確かなものにしてくれるという、静かでありながらも見過ごせない効き目を確かに持っています。

あらかじめ気になる品を手元でいくつか見比べておけるということは、卓に着いてから慌てて決める必要がなくなるということでもあり、その日の気分や同席する相手の好みまでを落ち着いて考え合わせながら、いちばん納得のいく組み合わせを、自分のいる場所から前もって思い描いておけるという静かな安心にもつながっていきます。

入口にあたる、この選ぶという場面がこうしてゆるやかに作り替えられたあとに控えているのは、注文を終えてから料理が卓に届くまでの、待つという時間の中身がどのように変わっていくのかという、次の場面の話にほかなりません。

料理を待つ時間の中身が別のものへと置き換わっていきます

注文を済ませてから料理が卓へ届くまでの、待つという時間は、食事の体験の中でこれまであまり正面から語られてこなかった場面ですが、モバイル注文が暮らしへ広がっていくことによって、その中身が実はまるで別のものへと静かに置き換わりつつあるという事実に、まず目を向けておきたいと思います。

順番待ちの列に加わって店の入口で立ち尽くす時間や、席に着いてから店員をどうにか呼び止めるまでの、あの手持ち無沙汰でどこか落ち着かない間合いは、これまで多くの人が当たり前のものとして黙って受け入れ、ある種のあきらめとともにやり過ごしてきた時間であったはずです。

手元の画面からあらかじめ注文を送っておける仕組みが整うと、店に着く前の移動の途中でさきに品を頼んでおき、ちょうど料理が仕上がる頃合いを見計らって店へ立ち寄るという、待たされる時間そのものをはじめから抱え込まない、新しい受け取り方を選べるようになっていきます。

店内でゆっくり味わう場合であっても、席に腰を下ろすやいなや手元から注文を送れるため、店員が卓のそばまで注文を取りに来てくれるのをじりじりと待つという、いわば一段目にあたる待ち時間が丸ごと消え去り、料理が実際に調えられるまでの正味の時間だけを待てばよくなるのです。

注文を送ったあとに、いま自分の頼んだ一皿が仕込みのどのあたりまで進んでいるのかが手元の画面の上でおおよそうかがえる仕組みが備わっていれば、あとどれくらいで料理が届くのかという見通しがはっきりと立ち、あてもなくただ待たされているときに募りがちな、あの小さないらだちがやわらいでいきます。

見通しが立つということは、言い換えれば、待つという時間を自分自身の裁量で自由に使えるようになるということでもあり、料理が届くまでの短い間に同席する相手とゆっくり言葉を交わしたり、その日にあった出来事に静かに思いをめぐらせたりと、時間の手綱を自分の手のうちへ取り戻せるようになります。

店が混み合う忙しい時間帯であっても、送られてきた注文が手元の仕組みの上で順序よくさばかれていくことによって、どの卓の料理がいまどこまで進んでいるのかが厨房の側でも整然と把握され、提供の抜け落ちや大幅な遅れといった、客の不満につながりやすい行き違いが起こりにくくなっていきます。

待ち時間のおおよその読みが立てられるようになると、限られた昼の休みの中でどうにか食事を済ませたい人にとっては、店を出るおおよその時刻までをあらかじめ計算に入れて動けるようになるため、時間に追われる場面での食事のしやすさや使い勝手が、以前とは比べものにならないほど良くなります。

料理の持ち帰りを頼むような場合には、こちらの指定した時刻に合わせて仕上げてもらえるため、店先で袋が調うのをただ立ったまま待つ必要がなくなり、受け取ったその足で、すぐさま次の予定へと歩き出していけるという身軽さが、無理なく手に入るようになります。

こうして待つという時間が、より短く、そして何より見通しの立つものへと変わっていくことは、食事の前後にどうしてもまとわりついていた気ぜわしさをそっとほどき、味わうというもっとも大切な中心の時間へ、落ち着いた気持ちで向かっていくための下地を、あらかじめていねいに整えてくれます。

ただ待たされることそのものが目に見えて減るというだけでなく、どうしても避けられない待ち時間の質そのものまでもが、あてどないものから見通しのあるものへと変わっていくという点にこそ、この待つ場面の作り替えが持つ本当の意味があるのだと、私は考えています。

時間にせかされることもなく、いらだちにじりじりと気力を削られることもなく料理を待てるようになった心持ちは、やがて運ばれてくる一皿を迎える気分をおだやかに整え、最初のひと口をより深く味わうための、静かでありながら確かな助走の時間になってくれます。

待ち時間の見通しが手元で立つようになると、その日の予定全体を組み立てるうえでの見当がつけやすくなり、食事のあとに続く用事の段取りまでを含めて、無理のない時間の使い方をあらかじめ描いておけるようになるという点も、日々を忙しく過ごす人にとっては見過ごせない、確かな支えになってくれます。

待つという場面がこうしてなだらかに作り替えられたあとに続いていくのは、いよいよ料理を受け取り、それを口へと運んで味わうという、食事の体験のまさに中心にあたる時間が、どのように変わっていくのかという話にほかなりません。

受け取って味わう中心の時間へ気持ちを注ぎやすくなります

食事という体験のまさに中心に位置しているのは、手をかけて調えられた料理を受け取り、目の前の一皿を口へと運んでゆっくり味わうという時間であり、注文の仕組みが作り替えられていく先には、この核心とも言うべき時間を、これまで以上に濃く楽しめるようになる変化が静かに待ち構えています。

注文や会計にまつわる細々とした手続きが、食事の中盤にたびたび割り込んでくるようだと、そのつど味わいへ向けていた集中はぷつりと途切れ、目の前の料理と落ち着いて向き合っていたはずの気持ちがそがれてしまうという、ふだんは見過ごされがちな損失が、これまで確かに生じていたはずです。

手元で注文がひと通り完結し、もう一品だけ追加で頼みたくなったようなときにも、わざわざ店員を呼び止めることなく画面からそのまま送れるようになると、味わいの心地よい流れをとちゅうで断ち切られることなく、食事の時間を最初から最後までひと続きのものとして楽しめるようになります。

温かいうちに食べてこそおいしい料理を、ちょうど仕上がったその頃合いに合わせて過不足なく受け取れる段取りが整うということは、味わいそのものの質を根っこから左右するとても大切な要素であり、すっかり冷めきってしまった一皿を前にがっかりするという、あの興ざめな場面をぐっと減らしてくれます。

追加の注文を思い立ったまさにその瞬間に、手を止めずすぐ送れるという手軽さは、もう一品だけ味わってみようかという気持ちのささやかな動きをやさしく後押ししてくれるため、食事の時間に思いがけない小さな彩りと、ちょっとした満足を添えてくれるという働きもあわせ持っています。

卓の上に、紙のお品書きや呼び出しのための札といったものがいくつも積み重ならなくなることによって、料理そのものを並べるための場所がゆったりと広く保たれ、目の前の一皿を目でも美しく味わうための、落ち着いた場そのものが、知らず知らずのうちに整えられていくことになります。

店員が注文を取るために何度も卓のそばへ足を運ぶ必要が薄れていくということは、味わいの時間の中に他人の気配がふいに割り込んでくる頻度を減らすことでもあり、同じ卓を囲む相手とのくつろいだ会話や、料理そのものとの静かな対話へと、より深く心を向けやすくしてくれます。

受け取りの場面が乱れないということは、注文したはずの品が過不足なく、しかも意図した正しい順序できちんと卓へ届くということでもあり、頼んだはずの一皿がいつまでも来ない、あるいはまったく別の品が運ばれてくるといった、せっかくの食事に水を差す興ざめな行き違いが起きにくくなります。

味わうという行いは、本来であれば、五感を澄ませて目の前の料理へと静かに心を寄せていく、それなりの集中を必要とする繊細な時間であり、その集中を横から守り抜くための地道な下ごしらえを、注文の仕組みが表からはほとんど見えないところで、黙々と支えてくれているのだと言えます。

食事を終えたあとに、その日味わった料理の記録がそのまま手元へ残っていくということは、あとから献立をゆっくり思い返したり、次に同じ店を訪れたときの品選びの手がかりにしたりと、味わいの時間を一度きりで終わらせることなく、その先へとつなげていくための余地を新しく生み出してくれます。

こうして受け取りと味わいの場面がていねいに整えられていくことで、これまで食事の中心にたびたび割り込んでいた雑事が薄れていき、料理そのものとまっすぐ向き合える純度の高い時間が、以前よりも確かに、そしてじんわりと厚みを増していくことになります。

味わうという体験の質は、料理の出来ばえそのものだけで決まってしまうものでは決してなく、それを迎える場の落ち着きの度合いや、そこへ気持ちをどれだけ向けやすいかによっても大きく左右されるという、言われてみれば当たり前のことを、この一連の変化はあらためて静かに教えてくれます。

追加で頼んだ品がすぐに厨房へ伝わることで、味わいの流れに沿ってちょうど食べたくなった頃合いに次の一皿が届くようになり、はじめに頼んだものを味わい終えてから間延びした空白を持て余すこともなくなって、食事という時間の運びそのものが、以前よりもなめらかで心地よいものへと整えられていきます。

味わいの時間が満ち足りた豊かなものになったあとに、なお残されているのは、食事のしめくくりにあたる支払いという場面が、いったいどのように作り替えられていくのかという、次の話にほかなりません。

食事のしめくくりにあたる支払いの場面がなめらかになります

満ち足りた味わいの時間をたっぷりと過ごしたあと、その日の食事の余韻を最後のところで左右してくるのが支払いという場面であり、ここが手際よく作り替えられているかどうかは、実のところその日の食事全体の後味を、思いのほか大きく決めてしまうものだと感じています。

会計を済ませるためにわざわざ席を立って列の後ろに並び、自分の順番がまわってくるまで手持ち無沙汰にただ立ち尽くすというあの時間は、料理を味わい終えた満足のまさに直後にやってくるだけに、ともすればその日の心地よい余韻をわずかに薄めてしまう、じつに惜しい場面になりがちでした。

注文の仕組みと支払いとが手元でひと続きのものとして結ばれていると、料理を味わい終えたまさにその場で会計まで済ませてしまえるため、席を立ってから店の外へ出るまでの一連の動きがなめらかにつながり、味わいの余韻をそのまま保った状態で、軽やかに外へと歩き出せるようになります。

複数の人で卓を囲んだあとの、いわゆる割り前の計算についても、それぞれが自分の頼んだ品の分だけを手元から支払える仕組みがきちんと備わっていれば、いったい誰がいくら出すのかを卓の上で細かく数え合うという、わずらわしいうえに何かと気を使うあの手間から、すっかり解き放たれることになります。

支払いの記録が手元へと明細のかたちできちんと残っていくということは、いったい何にどれだけのお金を使ったのかを、あとから静かに落ち着いて振り返るための助けになり、日々の食事にまつわるお金の流れを、自分自身の手で無理なく見通しやすくしてくれるという利点をあわせ持っています。

現金をその場でやり取りする手間が薄れていくことは、釣り銭の受け渡しにまつわる小さな行き違いや数え間違いをなくすというだけにとどまらず、会計そのものにかかる時間を短く保ち、次に席が空くのを待っている人へ、滞りなくすみやかに場を明け渡していくことにも自然とつながっていきます。

料理を提供する店の側から眺めてみれば、会計の作業がその日の注文の記録とそのまま過不足なく結びついていることによって、閉店したあとに一日の売上を数え合わせるという手間がぐっと軽くなり、金銭の取り違えという、ふだんから神経を使いがちな場面そのものも減らせるという、裏側での確かな利点が生まれます。

支払いがなめらかであるということは、客にとってはすなわち去り際の身軽さであり、店にとっては場の回転の速さそのものであって、その相反しがちに見える二つが、実は同じひとつの仕組みの上で無理なく両立しているという点にこそ、この支払いという場面の作り替えの妙味があるのだと申せます。

食事の締めくくりの場面が慌ただしくないということは、その日一日の食事をおだやかで満ち足りた気分のままそっと結び直すことにつながり、また近いうちに訪れたいという次への気持ちを、後味の良さと一緒になって、静かにそして確かに育ててくれるという働きも持っています。

支払いの場面がどこかぎくしゃくとしていると、どれほど料理そのものが満足のいく素晴らしいものであったとしても、まさに最後の最後のところで全体の印象がわずかに翳ってしまうという、料理の出来ばえとはまったく別のところで生じてくる、じつにもったいない損失が確かに存在しているのです。

その目に見えにくい損失を静かに取り除き、味わいの心地よい余韻を最後の最後まできちんと保ったまま食事を締めくくれるようにしていくことは、食事という体験の全体を通した満足の度合いを底上げするうえで、見た目の地味さとは裏腹に、決して小さくない大きな意味を持っています。

支払いという行いを、単なる事務的な金銭の受け渡しの手続きとしてではなく、その日一日の食事を心地よく結び上げるための、最後のひと筆として整え直していくところにこそ、この場面へあえて手を入れることの本当の狙いがあるのだと、私は考えています。

支払いの明細が手元に残っていくことは、家計を預かる立場の人にとっては日々の食費を無理なく見直していくための静かな足がかりとなり、外での食事を後ろめたさなく楽しむための、暮らしのうえでのささやかな安心にもつながっていくという、目立たないながらも見過ごせない利点をあわせ持っています。

食事の一巡がこうしてなめらかに締めくくられたあとに、なお残されているのは、また同じ店へ足を運びたくなるという、再び訪れる場面が、いったいどのように作り替えられていくのかという話にほかなりません。

また訪れたくなる関係が食後の記録から育っていきます

一度きりで途切れて終わってしまわない食事の体験というものは、実のところ店を出たあとにも静かに続いており、また同じ暖簾をくぐりたくなるというその気持ちがどのように育っていくのかという、再び訪れる場面にこそ、この作り替えの持つ奥行きが、いちばんよく表れてくるのだと感じています。

これまで、店と客とのあいだのつながりは、店員が客の顔と好みをどれだけ覚えていてくれるかという、いわば人の記憶の頼りなさに大きく委ねられており、その担い手が入れ替わってしまえば、長い時間をかけて積み重ねてきたはずの馴染みが途切れてしまうという、どこか心もとない弱さを抱えていました。

手元から注文を重ねていくと、これまでに味わってきた料理の顔ぶれや、その店を訪れた回数といったものが、記録として静かに、しかし着実に積もっていき、次にその店を訪れたときには、その積み重ねに沿ったかたちで品書きや案内が、そっと自然に差し出されるようになっていきます。

自分の好みへ寄り添ったかたちで料理の勧めが手元へ届くということは、数ある品書きの中から自分に本当に合う一皿を一から探し出す手間を省いてくれるというだけにとどまらず、この店は自分のことをちゃんと覚えていてくれるのだという、ささやかでありながらも確かに温かな心地よさを、そっと運んでくれます。

何度も足しげく通った人にだけひそかに開かれていく限定の一品や、これまでの記録に応じてさりげなく差し出される小さな心づかいは、その店へ通い続けるということそのものに、ちょっとした小さな楽しみを添えてくれるため、また訪れたいという気持ちを、おだやかに、そして無理なく育てていってくれます。

店の側から眺めてみれば、どのような品がどの時間帯に多く選ばれ、どんな客がどれくらいの間をおいて再び訪れてくれるのかという一連の流れが、記録としてはっきりと見えてくることによって、店主の勘だけに頼るのではなく、確かな手がかりに沿いながら品ぞろえや催しをていねいに整えられるようになります。

こうした一連の作り替えは、店舗のdxと呼ばれる取り組みのひとつの具体的な表れでもあり、日々のあわただしい営みの中にこれまで手つかずのまま眠っていた情報を、客との関係を一段と深めていくための、生きた手がかりへと変えていこうとする、地道な試みとして位置づけることができます。

記録に基づいた勧めというものは、決して押しつけがましくならないための匙加減こそが肝心であり、あくまで客本人の関心をそっと後ろから後押しする程度にとどめておいてこそ、通うことの楽しみそのものを損なうことなく、また訪れたいという素直な気持ちを、無理なく自然に引き出せるものだと考えています。

再び訪れる場面が作り替えられていくことの本当の意味は、一人ひとりの客との付き合いを、その場かぎりの一度きりの取り引きとしてではなく、時間をかけてゆっくりと育てていく、息の長い関係へと編み直していくところにこそあるのだと、私は受け止めています。

馴染みの関係が、うつろいやすい人の記憶だけに頼るのではなく、確かな記録によってしっかりと支えられるようになるということは、たとえ現場の担い手が入れ替わっていったとしても、積み重ねてきたつながりが途切れにくくなるという、店の営みの土台そのものを静かに強くしてくれる働きも持ち合わせています。

食事という体験が、そのたった一回きりでぷつりと完結してしまうような点としてではなく、幾度も訪れを重ねていく中で少しずつ深まっていく、一本の線のようなものとして捉え直されていくところにこそ、この再び訪れる場面の作り替えが持つ、いちばんの奥行きがあるのだと申せます。

通えば通うほどに居心地の良さが少しずつ増していくような店との関係は、日々の何気ない食事の時間に、小さな安心とささやかな楽しみをそっと添えてくれるため、暮らしの中で食卓を囲むというその時間そのものを、より豊かで満ち足りたものへと、静かに押し上げてくれます。

記録に支えられた馴染みの関係は、久しぶりに訪れたときであっても、まるで昨日も来ていたかのように自然に迎え入れてもらえるという心地よさを生み、間が空いてしまったことへの気後れを感じずにまた足を運べるという意味でも、通うことのしきいをやわらかく下げてくれる働きを持っています。

客の側から見た体験の作り替えを、ここまで場面を追いながらたどってきましたが、次にどうしても目を向けておきたいのは、料理を提供する店の側から眺めたときに、この仕組みがいったいどのような余裕を現場へ生み出しているのかという、いわば裏側にあたる話にほかなりません。

提供する側に生まれた余裕が味わう時間へ還元されていきます

食事という体験がどのように作り替えられていくのかを、客の側からだけ眺めていたのでは、その変化のちょうど半分しか見えてこないため、ここではあえて料理を提供する店の側に立ち位置を移して、この仕組みが現場にいったい何をもたらしているのかを、あらためて見つめ直してみたいと思います。

注文を口頭で耳から聞き取り、それを紙の伝票へ書き留め、さらにその伝票を厨房まで運ぶという昔ながらの一連の段取りには、どうしても聞き違いや書き間違い、伝え漏れといった行き違いがつきまとうものであり、そのつど現場は仕事の手をいったん止めて、慌てて取り繕う必要に迫られてきました。

手元から送られてきた注文が、そのままのかたちで厨房へと整然と届く仕組みが整うと、こうした取り違えの多くが入口のごく早い段階で姿を消していき、これまで作り直しや客への詫びに追われていた時間が、料理そのものへとまっすぐ心を注ぐための時間へと、少しずつ置き換わっていくことになります。

注文を取るために卓と厨房のあいだをなんども往復していた働き手は、その足を運ぶ回数が減ったぶんだけ、一皿一皿をより丁寧に仕上げることや、助けを必要としている客のところへさりげなく気を配ることといった、人の手でしか決して果たせない種類の仕事へと、じっくり向き合えるようになっていきます。

人手が思うようには集まらない現場であればあるほど、限られた働き手の力をいったいどこへ重点的に振り向けるかということが、その店の営みの生き死にを分けかねないため、機械に委ねられる部分は思い切って委ね、人にしかできない部分へこそ人を集めるという配分の見直しは、いよいよ切実な意味を帯びてきます。

どの品がどの時間帯にどれだけ選ばれているのかという傾向が、記録としてはっきりと見えてくると、仕入れの量や仕込みの段取りを、これまでのように店主の勘だけに頼るのではなく、確かな手がかりに沿って整えられるようになり、食材を余らせて捨てる無駄や、人気の品を切らして客を落胆させる場面を減らせます。

こうした一連の見直しは、いわゆるモバイルオーダーの導入をひとつの入口としながら、そこを起点にして現場全体の段取りそのものを丹念に組み直していく取り組みであり、決して単なる注文手段の置き換えにはとどまらず、店の営みそのものを根っこから整え直していくための、確かな足がかりになっていきます。

現場に新しく生まれてきたこうした余裕は、決して店の内側だけで完結してしまうものではなく、めぐりめぐって、客の味わう時間の落ち着きや、実際に受け取る料理の温かさ、そして応対する働き手のおだやかな物腰となって、食卓を囲む側へと静かに、しかし確かに還元されていくことになります。

追い立てられるように休みなく働いていた現場に、ほんの少しのゆとりが戻ってくると、働き手の表情や言葉づかいにも自然とやわらかさがにじみ出てくるものであり、その落ち着いた空気は卓を囲む客の側にもおのずと伝わって、食事の場そのものの心地よさを、内側からそっと押し上げてくれます。

つまり、店の側が求める効率と、客の側が求める満足とは、しばしば真っ向から対立するもののように語られてしまいがちですが、注文の仕組みを起点としたこの作り替えにおいては、その二つが同じひとつの土台の上で無理なく手を結び合えるという点にこそ、見過ごせない大きな値打ちがあるのです。

効率を突き詰めていくことが、人ならではのぬくもりをやせ細らせてしまうどころか、むしろ人にしか担えない種類の仕事へと、手と心をあらためて差し向けていくための余地を静かに広げていくのだというこの逆説こそが、今回の作り替えの本質を、いちばんよく言い当てているように感じられます。

提供する側に新しく生まれた余裕が、味わう側の満足へとゆっくり流れ込んでいく、このおだやかな循環をあわてず丁寧に育てていくことこそが、食事という体験の作り替えを、一時の物珍しさで終わらせることなく、暮らしの中へしっかりと根づかせていくための、いちばん大切な鍵になるのだと考えています。

現場に生まれたゆとりは、新しく入った働き手が仕事を覚えていくうえでの支えにもなり、注文の受け方をあらためて手取り足取り教え込む手間が軽くなるぶん、料理の味や客への心配りといった、時間をかけて身につけるべき大切なことへ、落ち着いて向き合わせてあげられるようにもなっていきます。

客の側と店の側という、その両面から食事の体験の作り替えをここまで順にたどってきたところで、最後に、これまで見てきたことをあらためて結び直し、この一連の変化が私たちの食卓へいったい何をもたらすのかを、いま一度ゆっくりと見晴らしておくことにいたしましょう。

まとめ

手元の端末から料理を頼むという仕組みが暮らしの中へ静かに広がっていくなかで、食事という体験が、注文というたったひとつの場面だけにとどまらず、料理を選び、届くのを待ち、じっくり味わい、代金を支払い、そしてまた店を訪れるまでの一連の流れごと組み替えられていくという道筋を、ここまで場面をひとつずつ追いながら、順にたどってきました。

入口にあたる、料理を選ぶという場面では、誰にせかされることもなく自分自身の間合いでじっくりと料理と向き合えるゆとりが静かに戻り、素材や味付けといった手がかりを頼りにしながら、はじめて出会う一皿にも安心して手を伸ばせるようになっていくという変化を、あらためて確かめてきました。

注文を終えてから料理が届くまでの、待つという場面では、これまであてどなく待たされていた時間が、見通しのはっきりと立つ短い時間へと置き換わっていき、限られた食事の時間を、味わいそのものや同席する相手との語らいへと、より多く振り向けやすくなっていく様子を見てきたところです。

食事の中心にあたる、受け取って味わうという場面では、これまでたびたび割り込んでいた雑事が薄れていくことによって、料理そのものへとまっすぐ心を注ぎやすくなり、温かいうちに一皿を迎えられる満足が、以前よりも確かに厚みを増していくということを、じっくりと確かめてまいりました。

しめくくりにあたる、支払いという場面では、会計がなめらかにひと続きのものとして結ばれることによって、去り際が身軽になり、味わいの心地よい余韻をそのまま保ったまま、食事をおだやかに締めくくれるようになるということの、見た目以上に大きな意味を、あらためて見つめ直してきました。

また店を再び訪れるという場面では、食後に静かに積もっていく記録が、もう一度あの店に通いたいという気持ちを育て、店と客との付き合いを、その場かぎりの一度きりの取り引きから、時間をかけて育てていく息の長い関係へと編み直していく、その奥行きを確かめてきたところでもあります。

料理を提供する店の側へと目を移してみれば、注文の取り違えや、卓と厨房のあいだの往復といった手間が減ったぶんだけ生まれた余裕が、人にしか担えない種類の仕事へとあらためて振り向けられ、その現場のゆとりがめぐりめぐって、客の味わう時間の落ち着きへと還元されていく循環が、はっきりと見えてきました。

こうしてひととおり眺め直してみると、この一連の作り替えは、速さや手軽さといった表向きの便利さだけにとどまるものでは決してなく、食事という時間の一つ一つの場面から余計な引っかかりをていねいに取り除き、味わうという中心へと気持ちを寄せやすくしていくための、地道で息の長い組み直しであったのだということが、あらためてよくわかります。

店舗のdxという言葉で語られることの多いこうした取り組みは、日々のあわただしい営みの中にこれまで眠っていた情報や段取りを、客との関係を深め、食卓の満足そのものを厚くしていくための生きた手がかりへと変えていく試みとして、これからもゆるやかに、しかし着実に広がっていくことでしょう。

ここで何よりも大切になってくるのは、仕組みを新しく入れることそれ自体を目的にしてしまわず、それによって食事のどの場面の体験が、いったいどのように良くなるのかという肝心の一点を、店を営む側も、日々食卓を囲む客の側も、決して見失わずにしっかりと持ち続けていくことだと考えています。

手元の小さな画面を起点にして始まったこの変化は、そう遠くない先には、身近な食堂から持ち帰りを中心とする店まで、さらに多くの食卓の風景の中へごく自然にとけ込んでいき、日々の食事という時間を、より落ち着いた心地よいものへと、内側から静かに支えていくようになるはずです。

仕組みを入れることそのものではなく、それによって食事のどの場面がどう心地よくなるのかを見据え続けることこそが肝心であり、その一点さえ見失わずにいれば、この作り替えは店と客の双方にとって、これからも長く実りをもたらし続けてくれるはずだと、私は静かな手ごたえとともに感じています。

食事という体験が、モバイル注文の広がりによって根本から組み替えられていくのだという、はじめに掲げた結論を、各場面のいきいきとした実相とともにあらためて確かめたうえで、どうかこの一連の変化を、暮らしを豊かにしてくれる前向きな力として、日々の食卓へおおらかに迎え入れていただきたいと、心から願っております。