手元のアプリの更新を面倒がって先延ばしにし続けた末に馴染みの客が静かに離れていった悔しさの告白
アプリの更新を後回しにし続けた末に店先から客が消えていった顛末
手元の端末から料理を頼めるモバイルオーダーの仕組みをせっかく費用をかけて整えておきながら、その画面を日々支えているアプリの更新という地道な作業を何年もの長きにわたっておろそかにし続けた結果、かつては短い列をなすほどにぎわっていた店先から、客がじわじわと音もなく姿を消していった苦い顛末を、いまここで包み隠さず正直に打ち明けておきたいと思います。
導入したばかりの頃こそ、手元で注文が最後まで完結する新しい仕組みは物珍しさもあって多くの来店客にすんなりと迎え入れられ、店頭にできていた行列が目に見えて短くなり、慌ただしかった厨房にもようやく落ち着きが戻ったことに、私たち店の者はすっかり満足しきってしまい、これで店の悩みの大半は片づいたのだと胸をなでおろしていたのでした。
仕組みというものは一度こしらえてしまえばそれで役目を終えるものだと頭から思い込んでいた私は、現に問題なく動いているのだからあえて手を入れる必要などないという身勝手な理屈を自分の中でこしらえてしまい、機能の細かな手直しや小さな不具合の修正といった、目立たないけれども欠かせない更新の作業を、いつしか少しずつ先送りにするようになっていったのです。
はじめのうちは、更新の手を止めていることによる目立った不都合など表には何一つ現れず、注文はこれまでと変わらず入り続け、月ごとの売上が落ち込む気配もまるで見えてこなかったため、この後回しという判断はむしろ余計な出費と手間を省いた賢い選択なのだと、私はいっそう都合よく思い込みを深めていってしまいました。
ところが月日が静かに重なっていくにつれ、来店した客が手にしている端末の側は世の流れに沿って次々と新しいものへ置き換わっていくのに、こちらの店のアプリだけが古びた姿のまま同じ場所に取り残されていき、両者のかみ合わせが少しずつきしみ始めていることに、当時の私はまるで気づくことができずにいたのです。
画面の反応がわずかに鈍くなり、時折り注文を進めている途中でふいに動きが止まってしまうといった小さなつまずきが、客の手元ではひそかに起こり始めていたのですが、店の側の端末では何事もなく動いているために、その不便はほとんど伝わってこないまま、目の届かないところで着実にその数を増やしていったのでした。
それでも私は、ごくたまに客から寄せられる使いにくいという声を、たまたま機嫌の悪かった一部の気難しい客の言い分にすぎないと軽く受け流してしまい、その声の奥に横たわっている更新の停滞という本当の原因からは、都合の悪さもあってずっと目をそらし続けてしまっていました。
そうして問題を放置しているうちに、かつて手元の注文を当たり前のように使いこなしてくれていた顔なじみの客が、いつの間にか一人また一人と店から足を運ばなくなっており、あれほど活気にあふれていた店先のにぎわいが以前より明らかにやせ細ってしまっていることに、私はようやく重い腰を上げて思い至ったのです。
慌てて過去の注文の記録を丹念にさかのぼってみると、手元の仕組みを通して入ってきた注文の数が、ちょうど私が更新をやめてしまった時期を境にして、なだらかに、しかし振り返れば疑いようもなく確実に、右肩下がりの線を描き続けていたことが、動かしがたい事実として私の目の前に突きつけられることになりました。
一度愛想を尽かして離れてしまった客というのは、こちらが不便を詫びて呼び戻す間もなく、より使い勝手のよい別の店の仕組みへと静かに乗り換えていってしまうものであり、あとになって慌てて呼び戻そうと手を尽くしてみても、その背中はもはやなかなかこちらへ振り向いてはくれませんでした。
あのとき地道な更新をおろそかにしてさえいなければと、去っていった客の顔を一人ずつ思い浮かべながら、私は幾晩も遅い時間まで布団の中で悔やみ続け、目先の手間と費用を惜しんだそのつけが、これほどまでに重く大きくなって我が身に返ってくるものなのかと、深く思い知らされることになったのです。
この一連の苦い経験は、食事を出すという仕事が、料理そのものの味わいだけで成り立っているのではなく、それを客が注文し、待ち、手元に受け取るまでの一連の道筋をどれだけ心地よく保てるかにも大きく支えられているのだという、私にとって生涯忘れがたい教訓を、痛みとともに残してくれることになりました。
これから続く各節では、そもそもなぜ私が更新を怠るという道に踏み込んでしまったのか、その小さな過ちがどのようにして目に見えない客離れへとつながっていったのか、そして同じ悔いを二度と繰り返さぬために私が何をどう立て直したのかを、恥を忍びつつ順を追って正直に書き綴っていくつもりでおります。
なぜ更新の手をとめてしまったのか当時の言い分と本当の事情
更新を怠ったという結果だけをぽつんと取り出せば、それは単なる怠慢のひと言で片づけられてしまいそうなものですが、当時の私の内側には、そこへ至るまでのいくつもの言い分と、それを裏側からそっと後押ししていた本当の事情が、ほどけないほど複雑にからみ合っていたというのが、いま思えば正直な実情でありました。
まず私の胸の内にいちばん頑固に居座っていたのは、現に注文が何の問題もなく流れているものに対して、わざわざまとまった手間と費用をかけてまで手を入れる意味など本当にあるのかという、目先の損得ばかりを気にした、いかにも身も蓋もない考え方だったのだと、いまでは苦々しく振り返っています。
日々の営業にひたすら追われている小さな店にとって、更新のための作業というのは、どうしても後回しにできてしまう性質を帯びたものであり、目の前に山と積まれた仕込みや、待たせてはならない接客のせわしなさに比べれば、その必要はまるで差し迫ったものには感じられなかったのが、偽らざるところでした。
更新には決して小さくない費用がかかるという頭の中の思い込みもまた、私の足を重く引きとめていた大きな要因であり、案内が届くたびにそのつど示される金額の重さばかりを惜しんでしまい、それを払うことで先々にどれほどの損失を防げるのかという、長い目で見たときの本当の値打ちを、冷静に測ることができなくなっていました。
加えて、仕組みの中身そのものが私にとってどこか得体の知れない難しいものに映っていたことも、私を更新から遠ざける後押しとなっており、専門の込み入った言葉が絡んだ話を持ちかけられると、それだけで気後れしてしまい、つい肝心の判断そのものを先へ先へと延ばしてしまっていたのです。
手元の注文の仕組みを裏側で支えている技術は、世の中の大きな流れに合わせて絶えず新しく生まれ変わっていくものであり、その流れに歩調を合わせ続けることこそが、いわゆるデジタル化の確かな土台になるのだという当たり前の理屈を、当時の私は頭の隅では分かっていながらも、どうしても我が事として引き受けることができずにいました。
更新を促す案内が店に届くたびに、私は今はとにかく忙しいからという言葉を口実にして、後回しの札を心の中で一枚また一枚と貼り続けてしまい、その札がいつしか店の奥に処理しきれないほど山と積み上がってしまっていることにさえ、気づかないふりを決め込んで日々をやり過ごしていたのです。
人手のいつも足りない小さな現場では、ただ目の前の一日を無事に回すだけで気力も体力も尽きてしまい、すぐには効いてこないけれど先々に確かに効いてくる備えのための作業へ手を伸ばす余裕が、どうしても真っ先に削られてしまうという、いかんともしがたい構造的な苦しさもまた、確かにその背景には横たわっていました。
とはいえ、そうした事情をいくら言葉を尽くして並べ立ててみたところで、更新を止めてしまうという判断そのものが正しかったのだと言い張ることはとうていできず、要するに私は、目の前のわずかな手間を惜しむあまり、その先に待ち構えている大きな損をあえて見ようとしなかっただけなのだと、いまでははっきり認めるほかありません。
動いているものにはうかつに触れないほうがかえって安全だという、一見するともっともらしく響く心得もまた、私を更新から遠ざけていた厄介な曲者であり、下手に手を入れて新たな不具合を招くくらいなら、そのまま黙って寝かせておくほうが無難だという後ろ向きの逃げの姿勢を、私に都合よく許してしまっていたのです。
しかし現実はまるで逆で、手を入れずにただ放っておくことのほうが、絶え間なく移ろっていく時の流れの中では、よほど大きく深刻な危うさを目に見えないところで静かに育ててしまうのだという冷厳な道理に、当時の私はどうしても思い至ることができずにいたのが、返す返すも悔やまれてなりません。
客の側を取り巻く環境が一日も止まることなく絶え間なく移り変わっていく以上、こちらが同じ場所で立ち止まっているということは、その場に安全にとどまっているのではなく、相対的にじわじわと後ろへ下がり続けていることにほかならないのだという厳しい事実を、私は多くの客を失うという痛い代償を払って、ようやく学ぶことになりました。
こうして落ち着いて振り返ってみますと、私が更新を怠ってしまった本当の原因は、詰まるところ費用でも人手でもなく、店の仕組みというものは客とともに育て続けてこそはじめて生き続けるのだという、最も肝心な心構えそのものが、私の中から根っこごとすっかり抜け落ちてしまっていたことにあったのだと、いまは静かに受け止めています。
古びた画面を前に客がひとりまた一人と静かに離れていった経緯
客が一つの店を見限って離れていくというのは、多くの場合、これでもう来ませんというはっきりとした別れの言葉をわざわざ残してくれるわけではなく、古びて動きの鈍った画面を前にした来店客が、声を上げることもないまま静かに背を向けて去っていったその一部始終の経緯を、いま思い返せる限りできるだけ丁寧にたどってみたいと思います。
更新を止めてしまってからしばらくの間は、長く通ってくれている常連の客たちも慣れた手つきで注文を続けてくれており、多少の使いにくさは長年の慣れでどうにか乗り越えてくれていたため、私はその客たちの黙った我慢の上に、うちの店が辛うじて成り立っているのだという危うい実情に、まるで気づくことができずにいました。
ところが、客が手にしている端末が世の流れに沿って新しくなっていくたびに、こちらの古びた仕組みとのかみ合わせは目に見えない速さで少しずつ悪くなっていき、これまでならすんなりと進んでいたはずの注文の途中で、画面がふいに固まったり肝心の文字がうまく表示されなかったりする場面が、じわじわとその数を増やしていったのです。
一度そうした不快なつまずきに出くわしてしまった客は、次に来店したときにもまた同じ煩わしい不便が待ち構えているのではないかという小さな不安を胸の内に抱くようになり、せっかく便利なはずの手元の注文を使うことそのものに対して、少しずつ気の重さと億劫さを覚えるようになっていってしまいました。
それでも義理堅く律儀な客ほど、すぐに愛想を尽かして見限ってしまうことはせず、何度か辛抱強く使い続けてくれるものなのですが、そのたびに小さな不便が一つまた一つと静かに積み重なっていくと、やがて我慢の器はいっぱいにあふれてしまい、ある日をふとした境にして、ふっと使うのをやめてしまうものなのです。
手元の仕組みを避けるようになった客は、はじめのうちこそ昔ながらの店頭での対面の注文へと素直に戻ってきてくれていたのですが、混み合う時間帯に列に並んで待たされる煩わしさを一度あらためて身をもって思い出してしまうと、次第にこの店そのものから静かに足が遠のいていってしまったのでした。
とりわけ痛手として身にこたえたのは、忙しい合間を縫って手早く食事を済ませたいと考えている客ほど、注文にまごついて時間を取られることに人一倍敏感であり、ほんの少しでも待たされてしまったと感じたその瞬間に、より滑らかで手早く使える近隣の別の店へと、迷うそぶりも見せずに流れていってしまったことでした。
客が離れていくその速さというのは、決して一夜にして一気に崩れ落ちてしまうような派手なものではなく、ひと月ごとにほんのわずかずつ静かに数を減らしていくという、実に気づきにくいなだらかさで進んでいったため、私はずいぶん長い間、その足元で進んでいた異変をまるごと見過ごし続けてしまったのです。
月ごとの売上の合計だけをぼんやりと漫然と眺めているうちは、その減りは他のさまざまな要因に紛れてしまってなかなか見えてこず、手元の注文に限った数字だけをきちんと切り出してみて初めて、そこに確かな下り坂が横たわっていたのだと突きつけられたときには、すでに取り返しのつかないほど多くの客が去った後でありました。
しかも私にとって何より厄介だったのは、離れていった客というのは自分の抱いた不満をわざわざ律儀に店へ伝えてはくれず、ただ何も言わずに黙って来なくなっていくだけなので、私はいったい何がどう悪かったのかをその口から問いただす機会さえ与えられないまま、遠ざかっていくその後ろ姿を見送るほかありませんでした。
だいぶ後になってから、離れていった客の何人かが、あの店の注文は使いづらいうえに妙に時間ばかりかかると、よそのどこかで漏らしていたらしいという話を、まわりまわって人づてに耳にしたときには、店には決して直接は届くことのなかったその小さな声の重さに、胸のあたりを強くつかまれるような思いがしたものです。
たった一人の客が店を離れるということは、単純にその客一人分の売上を失うということだけにとどまらず、その人がふだん連れてきてくれていたはずの同伴の客や、あちこちで口づてに広げてくれていたはずの好ましい評判までも、まとめてそっくり失ってしまうことを意味するのだと、私は後になってようやく痛いほど思い知らされました。
こうして、目に見えない声なき別れが少しずつ静かに積み重なっていった末に、気づけば店先のにぎわいは誰の目にも明らかなほど細く寂しくなってしまっており、更新をおろそかにするということは、詰まるところ客が長年寄せてくれていた信頼を音もなくすり減らしていくことなのだと、私はこの一連の経緯を通して深く骨身に刻むことになったのです。
見えない裏側で膨らみ続けた不具合と客の小さな不満の山
客の離反という誰の目にもはっきり見える結果の裏側では、店の側からはとうていうかがい知ることのできないところで、数えきれないほど多くの小さな不具合と、それに対して客が胸の内に抱いた細やかな不満とが、静かに、しかし着実に膨らみ続けていたのだと、すべてが手遅れになった後になって、私はようやく思い知らされることになりました。
更新をぷつりと止めてしまった仕組みは、時が経てば経つほどに世の中へ新しく出回っていく端末との相性がじわじわと悪くなっていき、これまでなら難なくすんなり開けていたはずの画面が、ある機種では体裁が崩れて表示され、また別の機種では途中で読み込みがぱたりと止まってしまうといった不揃いが、あちこちで頭をもたげ始めていたのです。
そうした不具合の厄介なところは、その多くが特定の条件がたまたまいくつも重なってそろったときにだけ顔を出す、実に気まぐれで捉えにくい性質のものであったことで、店に据えつけた見慣れた端末で確かめている限りでは何の異常も見当たらず、私は本気で問題など一つも起きていないのだと信じ込んでしまっていました。
けれども客の手元では、注文の確定をうながす肝心の部分を押しても画面がうんともすんとも反応しない、せっかく選んだ品が正しく反映されない、支払いの画面がいつまでたってもなかなか先へ進まないといった、地味だが確かな不便が、店のあずかり知らぬところで来る日も来る日もくり返されていたのでした。
こうした一つひとつのつまずきは、そのどれもが取り返しのつかない致命的なものというほどではなく、面倒でももう一度はじめからやり直しさえすればどうにか用は足せてしまう程度のものであったからこそ、客はわざわざあらたまった苦情として声を上げることをせず、その代わりに心の中へ小さな不満をそっと一つずつ積み上げていったのです。
そうして客の胸の内に静かに積み上がっていった不満は、やがて店そのものへの評価をじわじわと目に見えない速さで押し下げていき、たとえ肝心の料理の味わいや店員の接客そのものには何ひとつ落ち度がなかったとしても、注文までの道筋が心地よくないというたったそれだけの一点で、店全体の印象までもが曇らされていくという厄介な事態を招きました。
さらに私を悩ませたのは、古びて手入れの止まった仕組みが、安全という面においても時とともに次第に心もとないものになっていったことで、支払いに関わる大切な情報を安心して預ける先として、更新の途絶えた古い仕組みは客に漠然とした一抹の不安を抱かせてしまい、それがそのまま利用そのものをためらわせる隠れた一因にもなっていたのです。
当時の店の側は、注文が何件入ったかという表向きの分かりやすい数字ばかりを熱心に追いかけていて、その一件が成立するまでの裏側で、いったい何回のやり直しや途中での取りやめが起きているのかという、客の不便の実態をありありと映し出す数字のほうには、まるで目を向けようとすらしていませんでした。
もしあの当時、注文の途中で客があきらめて離脱してしまった回数や、同じ一人の客が幾度も同じ場面で立ち往生してやり直している様子を、こまめに丁寧に拾い上げてさえいれば、店の裏側で刻一刻と膨らみ続けていた不満の山に、私はもっとずっと早い段階で気づくことができたはずだと、いまとなっては悔やまれてなりません。
不具合というものは、面倒だからと放っておけばそのうち自然に消えてなくなってくれるどころか、周りを取り巻く環境が新しく更新されていけばいくほど、かえってその数と深刻さを増していき、まるで坂道を転がる雪だるまのように際限なく大きく膨らんでいく性質を持っているのだと、私はこのときはじめて身をもって思い知らされました。
客の抱いた不満というものは、はっきりと口に出して伝えられない限り店の側には決して伝わってこないという至極当たり前の事実を、私はあまりにも軽く見過ぎていたのであり、声にならない静かな不満こそが最も見えにくく、それでいて最も深く客を店から遠ざけてしまうのだということに、私は取り返しがつかないほど遅くまで気づけずにいたのです。
目に見えない裏側で今この瞬間に何が起きているのかを絶えず気にかけ、まだ小さく芽吹いたばかりの不便の芽を、大きく育ってしまう前のうちに一つずつ丁寧に摘み取っていくという、その地道で終わりのない手入れの積み重ねこそが、実は更新という作業の本当の中身にほかならなかったのだと、私はずいぶん遠回りをしてようやく理解するに至りました。
表に現れた客離れという現象は、あくまで冷たい水面から辛うじて顔を出していた氷山のほんの一角にすぎず、その暗く深い水面の下には、店がついに拾い上げることのできなかった無数の小さな不満が、声もなく静かに沈み込んで層をなしていたのだという厳然たる事実を、私はいまもなお忘れがたい苦い教訓として胸の奥に刻み込んでおります。
手を打ち続けた近隣の店との差がどこで決定的に開いたのか
自分の店がたどってしまった凋落の道のりを語るうえで、どうしても避けて通ることができないのが、ちょうど同じ時期に手元からの注文の仕組みを取り入れ、そこからこつこつと絶えず手を入れ続けていた近隣のある店との間に、いつしか取り返しのつかないほど決定的な差が開いてしまっていたという、正直なところ目をそむけたくなるような現実です。
その近隣の店もまた、うちとほとんど同じ頃に手元からの注文を始めており、店の構えの規模も、通ってくる客の顔ぶれもよく似通っていたため、私はしばらくの間、両者のその後の歩みにさほど大きな違いなど生まれてくるはずがないと、根拠もなくすっかりたかをくくって高をくくっていたのでした。
ところがだいぶ後になって知って驚かされたのは、その店が、たとえ地味で目立たない作業であっても更新を決して絶やすことなく、次々と現れる新しい端末との相性をきちんと保ち、使い勝手のうえで生じた細かな不便を一つずつ根気強く直し続けていたという、うちとはちょうど正反対とも言うべき、粘り強く誠実な姿勢でありました。
始まってから最初の一年ほどの間は、両者の店の間に目立つほどの差など何も見当たらず、客の入り具合もよく似た調子で穏やかに推移していたため、更新を続けているか否かという違いがやがてもたらすことになる大きな隔たりは、まだ静かな水面の下に深く隠れたまま、目に見えないところでひそかにその芽を伸ばしていたのだと、いまにして思われます。
しかし年月が一年また一年と積み重なっていくにつれ、絶えず手を入れ続けてきたあちらの店の仕組みは、移りゆく時代の変化に滑らかに寄り添い続けていったのに対し、更新の手を止めてしまったこちらの仕組みは、気づかぬうちに少しずつ時代の流れから取り残されていくという、まさに正反対の道をそれぞれ歩み始めていたのです。
両者の差がついに誰の目にもはっきりと見える形をとって表面化したのは、世の中に出回る端末が一斉に大きく様変わりしたある時期のことで、こまめに手を入れ続けていたあちらの店はその変化を何事もなかったかのように涼しい顔で乗り切ったのに対し、放置を決め込んでいたこちらは、あちこちで一斉に不具合が噴き出してすっかり立ちゆかなくなってしまいました。
あちらの店では、たとえ客が手持ちの端末を新しいものに買い替えたとしても、注文の使い心地がまるで変わることなく保たれていたため、そもそも客が愛想を尽かして離れていく理由というものが生まれようがなく、うちで取りこぼしてしまった客のうちの決して少なくない割合が、そのまま吸い寄せられるように近隣のその店へと流れ込んでいったのだろうと想像されます。
更新を続けるという一つひとつの行いは、その一度ごとを切り取って眺めれば、ごく地味で目立たない小さな手入れにすぎないのですが、それを長い年月にわたって飽きることなく絶やさずに黙々と積み重ねていけるかどうかという一点で、最終的に行き着く先には、もはや比べようもないほど大きく深い隔たりが生まれてしまうのだと、私は身をもって思い知らされました。
結局のところ両者の運命を分けたのは、手元にある資金の多い少ないでも、店の構えの大きい小さいでもなく、店の仕組みというものは育て続けなければやがて廃れていくという、考えてみればごく当たり前の道理を、日々のめまぐるしい忙しさのただ中にあっても忘れずに実行し続けられたかどうかという、地味だが揺るがぬ心構えのただ一点にあったのだと、いまは感じています。
こつこつと手を打ち続けたあちらの店は、単に現状を辛うじて保っていただけにとどまらず、更新のたびに客にとっての小さな使いやすさを一つずつ丹念に付け足していったことで、気づいたときには客にとって手放しがたいほどの心地よさを、じわじわと、しかし着実に、揺るぎない形で築き上げてしまっていたのでした。
それに対して一方のこちらは、自分では同じ場所にじっととどまっているだけのつもりでいながら、実際には周りの世界が前へ進んでいった分だけ、知らず知らずのうちに後ろへ下がってしまっていたのであり、その積もり積もった相対的な遅れが、ある時期を境にして一気に決定的な差となって水面へ噴き出したのだと、いまは冷静に理解しています。
いまにして思えば、あの近隣の店が黙々と重ねていた地道な歩みは、私にとって手を伸ばせば届くほど最も身近にあったはずのお手本であったのに、私はその背中から素直に学び取ろうとするどころか、あれは自分とはまるで関係のないよその話だと勝手に決めつけてしまい、まともに目を向けようとすることすらしませんでした。
この両者の差から私がようやく学び取ることができたのは、更新というものは、他店を出し抜くための特別な武器などでは決してなく、客からこの先も選ばれ続けるために欠かすことのできない、ごく当たり前で地味な土台づくりにほかならないのだという、いかにも遅きに失した、しかしそれでも確かにかけがえのない気づきでありました。
同じ悔いを繰り返さぬために整えた更新を絶やさない段取り
数え切れないほど多くの客を失うという手ひどい痛手をまざまざと味わってようやく目を覚ました私は、二度とふたたび同じ種類の悔いを繰り返して味わうまいと固く心に決め、更新という作業を決して途切れさせずに回し続けていくための段取りを、腰を据えて根本から一つずつ整え直すことに取りかかったのでした。
まず私が真っ先に着手したのは、更新をその時々の気分やその日の忙しさの度合いに委ねてしまうというこれまでのやり方をきっぱりとやめ、あらかじめ決めておいた区切りごとに必ず点検と手直しを行うという取り決めを、もはや動かしようのない店の約束事として、日々の営みの流れの中にしっかりと組み込んでしまうことでした。
具体的には、季節が移り変わる節目ごとに仕組みの状態をあらためて見直すための日をあらかじめこしらえておき、たとえその日に差し迫った不具合が何一つ見当たらなかったとしても、必ずその日には点検のために手を動かすという習慣を、店の揺るがぬ決まり事として、時間をかけて根気強く定着させていったのです。
次に私が力を注いだのは、客の手元でいま本当は何が起きているのかを、店の側からこちらへ進んで積極的に拾い上げていくための仕組みづくりであり、注文の途中で客があきらめて離脱してしまった回数や、同じ場面でやり直しが妙に多く発生している箇所を映し出す数字を、日ごろから欠かさず丁寧に眺めるように心がけました。
それとあわせて、来店した客が使いにくさや戸惑いを感じたそのときに、我慢して飲み込んでしまう前にその声を気軽に届けてもらえるような小さな窓口をきちんと用意しておき、そこへ寄せられた不便の一つひとつを、次の更新の機会に必ず具体的な形で手当てして返していくという流れを、店の内側にしっかりと通していきました。
更新にどうしてもかかってくる費用については、以前のようにそのつど降ってわいた余計な出費としてただ惜しむのではなく、大切な客を店に引き留めておくために欠かすことのできない、先々への確かな備えの投資として、あらかじめ一年ごとの見通しの中にきちんと織り込んでおくという考え方へと、私は頭の中をきっぱりと切り替えました。
専門の込み入った話が自分には分からないからと言って肝心の判断を先延ばしにし続けていた過去の手痛い反省をふまえ、私は分からないことを気兼ねなく相談できる信頼のおける相手をきちんと見つけ、分からないことを分からないままで済ませず、その都度かみ砕いて根気よく教わっていくという素直な姿勢を、少しずつ身につけていきました。
世の中を取り巻く端末や仕組みがこの先どのように移り変わっていこうとしているのかという大きな流れそのものにも、以前とは比べものにならないほど意識して耳を傾けるようになり、大きな変化がやってくると分かったその時点で、慌てふためくことなく前もって落ち着いて手を打てるような構えを、あらかじめ整えておくよう努めました。
こうした一連の地道な立て直しは、突き詰めてしまえば要するに、手元からの注文というモバイルオーダーの仕組みを、一度作ってしまえばそれで終わりの動かぬ道具としてではなく、客とともに絶えず育て続けていくべき生き物として扱い直すという、私自身の根本からの発想の大きな転換にほかならなかったのだと、いまでは思っています。
更新を絶やさないための段取りを実際に回し始めてしばらく経つと、これまでは店の目にまるで見えていなかった小さな不便が次々とあぶり出されるように拾い上げられてくるようになり、それらを一つずつ地道に手当てして直していくたびに、客の使い心地がじわじわと着実に整っていくのを、私は確かな手ごたえとして感じられるようになりました。
むろん、一度愛想を尽かして離れてしまった客のすべてが素直に戻ってきてくれたわけでは決してありませんが、地道な手入れをこつこつと続けているうちに、あの店は使いやすくなったという好ましい声が少しずつ寄せられるようになり、すっかり細ってしまっていた店先のにぎわいにも、ごくゆるやかにではありますが確かな回復の兆しが見え始めたのです。
この一連の立て直しの過程を通して私が最も強く実感させられたのは、更新というものは、一度きりのおおげさで大きな決断などでは決してなく、ごく小さな手入れを飽きることなく毎日こつこつと続けていく、その終わりのない日々の営みそのものにほかならなかったのだという、拍子抜けするほどに当たり前で地味な一つの真実でありました。
いまとなっては、更新を怠らないというその心構えは、毎朝の料理の仕込みや、開店前の店内の掃除とちょうど同じように、この店を無理なく続けていくうえでどうしても欠かすことのできない当然の日課の一つとして、私の一日の暮らしの流れの中に、すっかり深く自然に根を下ろしてくれるようになっています。
更新を怠らない構えが食事の提供そのものにもたらす前向きな力
更新を決して絶やさないというまっとうな心構えをようやく取り戻してみて、私が改めてはっとさせられたのは、その地味で終わりのない手入れが、単に客離れを食い止めるためだけの後ろ向きな守りにとどまるものではなく、食事を客に出すというこの仕事そのものを、より豊かで満ち足りたものへと押し上げてくれる、確かな前向きの力を秘めているという、思いがけない事実でありました。
手元からの注文が引っかかりなく滑らかに流れるようになってみると、これまで店頭でのこまごまとしたやり取りに費やしていた手間が目に見えて軽くなり、そうして浮いた分だけ、料理そのものへとまっすぐ注げる気持ちと時間がゆったりと増えていって、私は一皿ごとの仕上がりに、以前よりもずっと深く心を込められるようになったのです。
注文までの道筋が心地よく整った状態にきちんと保たれてさえいれば、来店した客は待たされることのいらだちや煩わしさからすっかり解き放たれて、目の前に運ばれてきた食事を心ゆくまで落ち着いて味わうことに集中でき、そうして生まれる客の満ち足りた穏やかな表情が、作り手である私たちの日々の張り合いをも、根っこのところから静かに支えてくれるようになりました。
更新という営みを通して日々こちらへと集まってくる客の使い方の記録は、どの品がどの時間帯にとりわけよく選ばれているのかといった、机の上では決して見えてこない生きた気づきを店にもたらしてくれるものであり、その気づきを毎日の仕込みや品ぞろえの工夫に丁寧に活かしていくことで、食事の提供そのものを、より無駄なくしなやかに整えていくための確かな手がかりにもなっていきます。
手元の仕組みが常に新しく手入れの行き届いた状態にきちんと保たれているということは、それだけで客に対して、この店は目立たない細やかなところにまでちゃんと気を配ってくれているのだという静かな安心をそっと伝えることになり、その小さな安心が、やがて料理そのものへ寄せる信頼とも自然に重なり合って、店全体の印象を穏やかに、しかし確かに引き上げてくれるのです。
世の中の仕組みの絶え間ない移り変わりに歩調をきちんと合わせ続けていく、いわゆるdxと呼ばれる取り組みというものは、決して大がかりで派手な一度きりの刷新だけを指し示す言葉ではなく、むしろこうした目立たない日々の小さな更新を、飽きることなく絶やさずこつこつと積み重ねていくことの、その地道な延長線上にこそ、その確かな中身が宿っているのだと、私は次第に考えるようになりました。
更新を怠らないという構えがひとたび店の日常に深く根づいてしまうと、これまでは思いもよらなかった新しく便利な機能を取り入れてみようという前向きな余地にも、自然と目が向くようになっていき、たとえば注文とその支払いをより滑らかに一続きにつなぐような工夫などを、客の負担をそっと軽くしてあげる方向へ、少しずつ着実に取り入れていけるようになります。
そうして丹念に整えられていった注文の仕組みは、忙しい合間を縫って一刻も早く手早く食事を済ませてしまいたいと願う客にも、逆にゆっくりと時間をかけて一皿ずつじっくり味わいたいと望む客にも、そのどちらのめいめいの過ごし方にも柔らかく寄り添う受け皿となってくれて、幅広い客のさまざまな求めに、無理なく応えられるようになっていくのです。
店で働く側の者にとっても、注文をめぐるこまごまとした混乱や、うっかり起こりがちな取り違えの類いが目に見えて減っていくということは、日々の張り詰めた神経の緊張をやわらかくほぐしてくれるものであり、心にゆとりを持って一人ひとりの客と落ち着いて向き合える土台となって、そのゆとりがそのまま接客のさりげない温かみとなり、めぐって客のもとへと返っていくことになります。
かつて一度、取り返しのつかないほどの手痛い失敗をくぐり抜けてきたからこそ、私はいまでは、更新というものを、できれば避けたい面倒な負担としてではなく、店と客との間に通う心地よい関わりを、絶えず磨き続けていくための前向きで創造的な営みなのだと、心の底から素直に受け止められるようになったのだと、しみじみ感じています。
地道な手入れをこつこつと続ければ続けるほどに、店の仕組みは客の日々の暮らしにいっそう自然になじんでいき、その気持ちのよい使いやすさがやがて評判となって、これまで縁のなかった新たな客まで呼び込んでくれるという、かつてのじり貧とはちょうど正反対の、好ましく前向きな流れが、ささやかではありますが店の中に確かに生まれ始めているのを、私は日々実感しております。
更新というこの地味で目立たない行いが、めぐりめぐって料理そのものの質や、店員の接客に通う温かみ、そして何よりも客一人ひとりの深い満足へと、目に見えない糸でしっかりつながっていくのだという確かな手ごたえは、あの苦い悔いを一度くぐり抜けてきた私にとって、いまやほかの何ものにも代えがたい、日々の支えとなってくれています。
あのとき失ってしまったものは、決して小さくも軽くもありませんでしたが、あの身を切るような痛みを確かに経てきたからこそ、いまの私は更新を怠らずに続けていくことの前向きな値打ちを、心の底から偽りなく信じられるようになったのであり、その揺るぎない信念こそが、これから先の店づくりを根っこのところで支えてくれる、確かな一本の柱となっているのです。
まとめ
手元からの注文を支えるアプリの更新をおろそかにしてしまったことで、かけがえのない多くの客を静かに失っていったというこの苦い経験は、私という一人の店の者にとって、店を末永く続けていくうえでいったい何をこそ最も大切にすべきなのかを、根っこのところから深く問い直させてくれる、痛みを伴った得がたい学びの機会となってくれました。
問題なく動いているものにあえてわざわざ手を入れる必要などないという、あの当時の私を縛りつけていた思い込みが、実のところいかに危うく足元の脆いものであったかを、私は数え切れないほど多くの客の去っていく後ろ姿を黙って見送るという、あまりに高くついた代償を払って、ようやく骨身に深く刻み込むことになったのです。
客を取り巻く周りの環境が一日たりとも止まることなく絶えず移り変わっていく以上、こちらが同じ場所でただじっと立ち止まっているということは、それ自体がすでに紛れもない後退にほかならず、更新を怠るということは、気づかぬうちに客が長年寄せてくれていた信頼を、音もなく静かにすり減らしていく行いなのだということを、私は身をもって深く学びました。
何も言わずに黙って離れていった客の一人ひとりが、その背中で私に教え残していってくれたのは、ごく小さな不便の積み重ねというものこそが、店の側からは最も見えにくく、それでいて実は最も深く確実に客を店から遠ざけてしまうのだという、決して忘れ去ってはならない、重く静かな一つの教訓でありました。
二度とふたたび同じ悔いを味わって繰り返すまいと固く心に誓った私は、更新をその日の気分任せにしてしまうこれまでのやり方をきっぱりと改め、あらかじめ決めておいた区切りごとに必ず点検と手直しを行うという取り決めを、日々の営みの流れの中に、揺らぐことのない確かな習慣としてじっくりと根づかせていきました。
手元からのモバイルオーダーの仕組みを、一度作ってしまえばそれきりの動かぬ道具としてではなく、客とともに手をかけて絶えず育て続けていくべき一つの生き物として捉え直すという、その根本からの発想の大きな転換こそが、私が行った一連の立て直しの、いちばん深い根っこのところに横たわっていたのだと、いまは落ち着いて振り返ることができます。
目立たない地道な更新をこつこつと飽きずに積み重ねていくということは、世の中の大きな流れに店の歩調をきちんと合わせていく、いわゆるdxの取り組みの、まさにその確かな土台そのものであり、それは決して大がかりで派手な一度きりの刷新などではなく、日々のごく小さな手入れの、その地味な延長線上に静かに宿るものなのだと、私はいまでは考えています。
更新を怠らないというまっとうな構えは、単に客離れをぎりぎりで食い止めるための後ろ向きな守りにとどまるものでは決してなく、食事を客に出すというこの仕事そのものを内側から豊かにし、料理の質や、接客に通う温かみや、そして何より客一人ひとりの深い満足へと、めぐりめぐって確かにつながっていく、力強い前向きの働きを、その内側にしっかりと秘めているのです。
あのとき失ってしまった客のすべてが素直に戻ってきてくれたわけでは決してありませんが、それでも地道な手入れをこつこつと続けているうちに、あの店は使いやすくなったという好ましい声がぽつりぽつりと寄せられるようになり、すっかり細って寂しくなっていた店先のにぎわいにも、ごくゆるやかにではありますが、確かな回復の兆しが見え始めています。
かつてあのとき味わった、身を切られるような痛みが確かにあったからこそ、いまの私は、更新というものを、できれば逃げ出したい面倒な負担としてではなく、店と客との間に通い合う心地よい関わりを絶えず磨き続けていくための、前向きで実りある営みとして、心の底から素直に受け止められるようになったのだと、しみじみと感じております。
もしいま、かつての私とちょうど同じように、目先のわずかな手間や費用を惜しむあまりに、大切な更新をずるずると後回しにしてしまっている店があるのだとしたら、どうか取り返しのつかない手遅れになってしまう前に、ごく小さな手入れからでよいので今日この日から始めてほしいと、かつて数々の悔いを重ねてきた一人の者として、心から切に願っています。
店の仕組みというものは、手をかけて育て続けてこそはじめて生き続けるのだという、考えてみればごく当たり前の一つの真実を、私はずいぶんと高い授業料を払ってようやく学ぶことになりましたが、その痛みを伴った学びはいま、これから先の店づくりを根っこのところで支えてくれる揺るぎない一本の柱として、確かに私の背中をそっと押し続けてくれています。
すでに過ぎ去ってしまった悔いそのものは、いまとなってはもはや取り戻しようもありませんが、その苦い悔いをこそ確かな糧として、更新を絶やさぬ店へと一歩ずつ着実に歩みを進めていくことこそが、かつて黙って去っていったあの客たちへの、何よりの誠実な報い方なのだと信じて、私はこれからも変わらず地道な手入れを続けていくつもりでおります。